今回は天理教として神様が教えてくれた「働き」という習慣の詳細について書いていきたいと思います。
「働き」という習慣について教祖が教えてくれたこと
「働き」という習慣について、教祖が教えてくれたことや、そこから解釈できることを書いていきます。
まず、「働き」の意味を端的に紹介します
端的に伝えてくれたお言葉がありますので、紹介しますね。
働くというのは、はたはたの者を楽にするから、はたらく(註、側楽・ハタラク)と言うのや。
(天理教教祖伝逸話篇 197 働く手は より)
「働き」とは何かといえば「はたはたの者を楽にする」習慣であると教祖は教えてくれたのです。
「はたはたの者」とは、はた=側≒傍=そば、というところから、そばにいてくれる人たちと分かります。
つまり、「働き」は何かといえば、そばの人たちが楽になるように自分が心と体を動かす習慣であると推察できます。
シンプルにそばの人たちが楽になるように心と体を動かしてくだけでも、私たちの人生にはと~っても良い影響がありますが、この「働き」という習慣に込められた神様の親心を悟っていくことで、心の根を伸ばすのにもとても良い影響があり、確信をもって続けていくことができます。
「働き」という習慣は何を目的として、どのような結果が私たちにもたらされるのか、教祖が教えてくださったところから以下で推察していきますね。
【大前提】親神様・教祖の目からみて世界はどういう状態か
前提となる知識として必要な、まず親神様がどのような思いで世界を造ってくださったのかについて、書いていきますね。
人々が陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しみたい
この世の初めは泥海のような混沌としたあり様でありまして、月様と日様、つまり月日親神様がいるだけで他には何もなく、なんとも味気なくて寂しい状況だったそうです。
そこで、月日親神様は、人間というものを造り陽気ぐらしするのを見て、共に楽しもうと思召されて、凄まじい御苦労をかけて、世界と人間を造ってくれました。
この世の元初まりは、どろ海であった。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。
(天理教教典 第三章 元の理 より)
しかし世界の状況は…
親神様は「人間が陽気ぐらしをする様を見て、共に楽しみたい」と思召されて人と世界を造ってくれましたが、その思召しは叶ったのでしょうか?
月日親神様の社となった教祖は、世界の状況に関してお言葉を残してくださっています。
今、世界の人間が、元をしらんから、互に他人と云ってねたみ合ひ、うらみ合い、我さへよくばで、皆、勝手/\の心つかひ、甚だしきものは、敵同士になって嫉み合ってゐるのも、元を聞かしたことがないから、仕方がない。なれど、この儘(まま)にゐては、親が子を子殺し、子が親を殺し、いぢらしくて見てゐられぬ。それで、どうしても元をきかせなければならん。
(山名大教會 改訂 初代會長夫婦自傳 69頁より)
親神様・教祖は、世界の様子をかなり残念がってらっしゃると分かります。
ねたみ合いやうらみ合い、自分だけ良かったらそれで良い、こうした人々が世界にたくさんいて、そして戦争などもなくなることはなく、親が子を殺し、子が親を殺してしまうような悲しい状況になっているのは、今でも変わりませんね…。
人々が互いに助け合って陽気に暮らす様を見て共に楽しみたいと思召されて、月日親神様は世界と人を造ったというのに、人々はたすけ合うどころか、ねたみ合いうらみ合い勝手勝手な心を使って、苦しみの方へ進んでしまっている…。
そこで人々が陽気ぐらしに成ってほしいと、教祖は世界の人々の運命がたすかっていくための道を教えてくれたのです。
どうやったら、ねたみ合いではなく互いにたすけ合えるような世界のあり様になっていけるのでしょうか?
「働き」に込められた親心を味わっていくことで分かっていきますので、深ぼりしていきましょう。
「働き」に込められた親心を深ぼり
ここで、「働き」に関して教祖が残してくださった、詳細がより分かりそうなお言葉がありますので、紹介いたします。
もう少し、もう少しと、働いた上に働くのは、欲ではなく、真実の働きやで。
(稿本天理教教祖伝逸話篇 111 朝、起こされるのと より)
「はたはたの者を楽にするから、はたらくと言うのや。」と上で書いたように教祖は「働き」の意味を教えてくださいましたが、そばの人が楽になるようにと、もう少し、もう少しと心や体に汗をかいていくのは、真実の働きであるとも教えてくださっていたのです。
ここで、「欲ではなく」と念をおされているところが、実は大切な姿勢を暗示しているように私は感じられるのです。
深ぼるために、まず欲というものを教祖がどのように教えてくれているのか、見てみましょう。
「我が身勝手な心の使い方ではない」と伝えたかったのではないか?
欲というものを理解するために、教祖が伝えてくれた「ほこり」という教えを知っていくとよろしいです。
「ほこり」とは、我が身勝手な心づかいを指しています。
人間とは、心に修理や肥を与えないままに生きていると、気がつかないうちに我が身勝手になってしまうものではないでしょうか?
気がつかないうちにたまっているところから、我が身勝手な心の使い方でたまってしまう汚れのようなものは、「ほこり」と教祖が教えて下さいました。
この「ほこり」を積もり重ねていくと、天の理が迫り、個人でみれば病となって身の患いや悲しみの事情を引き落こしてしまい、また、その個人の積もり重なりで世界に戦争などの悲しみが起きてきてしまいます。
陽気ぐらしではなく、上で書いたように親神様・教祖がなげいていた悲しみの世のあり様となってしまうということです。
この「ほこり」を自覚してお掃除していくために、人それぞれ幾千筋もある汚れた心づかいを、要点として八つにまとめて教えてくれたのが、「八つのほこり」となります。(八つのほこり=をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん)
この「八つのほこり」のうちの1つが「よく」となります。
「働き」に関する教祖の御言葉の「もう少し、もう少しと、働いた上に働くのは、欲ではなく、真実の働きやで。」の中で、「欲ではなく」と念をおされているところから、「真実の働き」とは「我が身勝手な心づかいでは決してないのやで。」との思いがあるのではないかと推察できます。
では、「働き」とは、深掘りするとどのような心づかいと分かるのでしょうか?
「人をたすける心の使い方に向かってほしい」ということではないか?
より深く推察するために、人の運命がたすかるために教祖が残してくれたお言葉を紹介します。
我が身どうなってもと云う心にならなけりや
真実の心は生れてこんのや
案じ心を捨てゞ人の喜ぶよう
人の助かるような道を通りなはれや、
人助けたら我が身助けて貰うことが出来るのやで
(教祖御口伝おことば 27頁 明治十年十一月二十三日)
人を助けたら我が身を助けてもらうことができる、と教えてくれています。人をたすけたら、魂にまいてきた悪い種が切れて徳が積めて陽気ぐらしに近づいていくわけですが、その際にどのような心を持てば良いかを説明してくれているのです。
我が身がどうなってもよいと意を決して案じる心を捨てるとはつまり、我が身勝手な心づかいを捨てる、ということだと悟れます。
人のために時間を使いたくない、惜しい。
自分のことが、可愛い。
たとえばこうした、をしい、かわいの「ほこり」の心づかいは、まさに我が身勝手そのものでありまして、こうした心づかいを改めていくことが、陽気ぐらしに向かっていくには大切だと教えてくれているのです。我が身勝手な心づかいを積み重ねて、個人で見れば病や悲しみの事情に、世界全体で見れば戦争などの悲惨なあり様になるのですから…。
陽気ぐらしになっていくためには、こうした我が身勝手な心づかいを捨てて、人をたすける心になってくれ、と教えてくれているのです。
もっと具体的に申しますと、優先するのを我が身ではなく、人のたすかりとしてくれ、優先する心の矢印の向きを、自分ではなく人のたすかりに向けてくれ、と教えてくれているのです。
話を「働き」に戻しましょう。
陽気ぐらしになっていくための「我が身勝手⇒人のたすかり」という心の向きのあり方は、教祖が教えてくれたことと一致していると悟れるのです。
上でも書きましたが教祖の御言葉として
- もう少し、もう少しと、働いた上に働くのは、欲ではなく、真実の働きやで
- 働くというのは、はたはたの者を楽にする
とありましたが、見事に「我が身勝手⇒人のたすかり」という心の向きにすることが大切と説いてくれていることがわかります。
つまり、「働き」とは、陽気ぐらしから遠ざかってしまう我が身勝手な方ではなく、人のたすかりへ真心を尽していく方へと心を向ける土台をつくる習慣である、と悟ることができます。
その「働き」を積み重ねて、私たちはどのようになっていけるのでしょうか?
長くなってきたので、次で上をまとめつつ、書いていきますね。
「働き」とは、我が身勝手から人のたすかりへ心の向きを変え、世界に互い立て合いたすけ合いの土台をつくる習慣である
上をまとめますと、「働き」は、
行為で見ると「はたはたの者を楽にする」を続け、
心のあり方で見ると「我が身勝手⇒人をたすかる」へ向きを変えていく土台をつくる習慣であると悟ることができます。
そして、この「働き」を続けていけばどうなるかどうなっていくのでしょうか?
上では世界はねたみ合いやうらみ合いなど、陽気ぐらしからはほど遠いあり様であると書きましたが…。
どうなるか示してくれたような教祖のお言葉があります。
世界中、互いに扶け合いするなら、末の案じも危なきもない。仕事は何んぼでもあるけれども、その仕事をする手がない家もあれば、仕事をする手は何んぼでもあるが、する仕事がない家もある。奉公すれば、これは親方のものと思わず、蔭日向なく自分の事と思うてするのやで。秋にでも、今日はうっとしいと思うたら、自分のものやと思うて、莚でも何んでも始末せにゃならん。蔭日向なく働き、人を助けて置くから、秋が来たら襦袢を拵えてやろう、何々してやろう、というようになってくる。こうなってくると、双方たすかる。同じ働きをしても、蔭日向なく自分の事と思うて働くから、あの人は如才ない人であるから、あの人を傭(やと)うというようになってくる。こうなってくると、何んぼでも仕事がある。この屋敷に居る者も、自分の仕事であると思うから、夜昼、こうしよう、ああしようと心にかけてする。我が事と思うてするから、我が事になる。ここは自分の家や、我が事と思うてすると、自分の家になる。蔭日向をして、なまくらすると、自分の家として居られぬようになる。この屋敷には、働く手は、いくらでもほしい。働かん手は、一人も要らん。
(稿本天理教教祖伝逸話篇 197 働く手は より)
蔭日向なく「働き」を人々がすることができたなら、互いたすけ合いの様になっていく、と端的にまとめることができます。
互いにねたみ合いうらみ合いをしてしまう世のあり様ですが、
「働き」を人々が心に決め続けていくことで、
互いにたすけ合いの状態になっていくのです。
「働き」を通して、我が身勝手から人をたすける心の土台ができていき、そして実際に人をたすけ続けることができたなら、魂に積んだ悪い種が切れ徳が積まれ、運命は切り替わってくのです。
そして、その運命が切り替わった個人個人が積もり重なっていき、世界から戦争などの悲惨な事態が消え、互いにたすけ合いに溢れた、そして人々の運命が陽気に切り替わった、陽気ぐらしの世界になっていくのです。
「働き」とは「はたはたを楽させる」という字面だけ見たら小さなことのように思われるかもしれませんが、実は陽気ぐらしという凄まじく壮大なありがたい結果に繋がっていくほど、すごいものなのです。
はたはたを楽させる、続けていきましょう。
私たち個人の運命も必ず切り替わり世界も陽気ぐらしに近づいていく、それほどまでにありがたい「働き」を続けていきましょう。

