今回は、天理教の教祖・中山みき様が教えてくださった、大切な習慣である「朝起き・正直・働き」のうちの正直について書いてきます。
正直という習慣について教祖が教えてくださったこと
「正直」とはどのような習慣か?
教祖は「正直」という習慣について、次のように教えてくださいました。
「蔭でよく働き、人を褒めるは正直。」
(稿本天理教教祖伝逸話篇 111 朝、起こされるのと)
シンプルに正直という生き方を説明してくださっていますが、実はここのところ、とても深いことを教えてくれているのです。
ただ単に、「人の目の届かないような陰のところでよく働いて本人のいないところで人を褒めることが、正直という生き方である」と理解して実践するだけでも、私たちの魂には心にはとても良い影響がありますが、もっともっと深めていくことで、親神様・教祖の親心が味わえて、確信をもって心の根を育てていけます。
もっともっと深めてみましょう。
「蔭でよく働き、人を褒める」という生き方に込められた理合い
「蔭でよく働き、人を褒める」という行いにはどのような理合いが込められているのでしょうか?
陰でよく働いて人を褒めた先に、いったい何にどのような影響があるのでしょうか?
月日親神様の社となった教祖・中山みき様は、高弟である飯降伊蔵先生に、次のように教えてくれました。
「伊蔵はん、この道はなあ、陰徳を積みなされや。人の見ている目先でどんなに働いても、陰で手を抜いたり、人の悪口を言うていては、神様のお受け取りはありませんで。なんでも人様に礼を受けるようでは、それでその徳が勘定ずみになるのやで。」
(天の定規 本席・飯降伊蔵の生涯 道友社編 p.21)
ほお~なるほど、人の見ている目先でどんなに働いても、陰で手を抜いたり悪口を言っていては、神様の受け取りはないんだな~…。御礼を言われたら、徳が勘定ずみになるんだなぁ~…。
………。
なんとなく分かったような、分からないような…。
こんな感じになっている方が多いのかもしれません。
もっと詳細を見ていきましょう。
「神様のお受け取り」について
「神様のお受け取り」とは、どのようなものを指すのでしょうか?
それを味わっていくには、魂の理合いを見ていく必要があります。
何も意識をしなくても、心臓は動き息はでき、私たちの命は保たれています。これは、神様が私たちに体を貸してくださり、私たちが心一つに借りている、ということの現れなのです。
人間の本体は魂であり、魂は生き通しで、生まれかわっても同じ魂を人間は持ち続けています。
この世にオギャーと生まれてから、私たちの心一つに神様が体を貸してくれます。時間と共に古くなった体は、天の親神様に返す時がやってきます。体を天に返してからは、魂は親神様の胸元に抱かれて、そしてまた魂に積んだ徳いっぱいに応じた時と場所に、徳次第の体を貸してくださり、生を与えられます。
天理教では、一般にいう「死」のことを、また生まれかわってくることから、「出直し」と呼んでいます。
体を貸してもらい生を与えられてから、体を返して出直して、また体を貸してもらい生を与えられる、これを繰り返しているのです。このサイクルを、同じ魂に対して親神様がやってくれているのです。
神様のお受け取りとは、この生き通しの魂に対してされていくものなのです。
私たちの心づかいは、親神様が受け取ってくださっており、私たち自身の魂に積もっていっている、ということなのです。
良い心づかいも、悪い心づかいも、親神様が受け取ってくださっており、そして私たちの魂に積んでいかれており、今生だけではなく、来生・来々生・何度もの生まれかわりを通して、自らに返ってくる、ということなのです。
関係する親神様・教祖のお言葉を載せておきます↓
しんぢつの神のはたらきしかけたら せかい一れつ心すみきる(第五号 四九)
はたらきもいかなる事とをもうかな 心うけとりしだいかやしを(第五号 五〇)
(おふでさき)
「人様に礼を受けるようでは、それでその徳が勘定ずみになる」について
心づかいが、善悪ともに親神様に受け取られ自らの魂に積まれていく、ということが分かったとして、「人様に礼を受けるようでは、それでその徳が勘定ずみなる」とはどのような意味なのでしょうか?
ここで、親神様・教祖のお言葉を読んでみましょう。
何も無き草深い処から始めた道、俺が芯や/\と突っ張っても、頑張りても、どうもならん。理は見えねど、皆帳面に付けてあるのも同じ事、月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く。これ聞き分け。(おさしづ明治二十五年一月十三日)
良い心づかいをしても悪い心づかいをしても、目に見えなくても、親神様は天の帳面に付けてくださっており、良い心づかいがたくさんされていれば、自らに良い形で返してもらえるということです。そして逆もしかり、ということです。
つまり、「人様に礼を受けるようでは、それでその徳が勘定ずみになる」とはどういうことかと言うと、人の目に見えない陰のところで良いことをすれば、親神様・教祖は見ていてくださりそれを天の帳面につける形で受け取って、何代にも関わる魂という次元で自らに返してくれる、陽気ぐらしにおいてはありがたい結果となったというのに、人に見えるところで働いて人に礼を言われたら、まるで注文してもらったものの対価としてお金を受け取った状況のようなもので清算済みとなり、天の帳面には記録してもらえない、ということなのです。
少し複雑になってしまったので、次の段落でまとめてみますね。
「正直」とは、自らの魂がたすかっていく土台をつくる習慣である
「正直」という習慣の「蔭でよく働き、人を褒める」とは、
人から良く思われたいなどの、目に見える形での報酬を頼りにするのではなく
目には見えない神様に受け取ってもらえて天の帳面につけてもらい自分自身が陽気ぐらしになっていくことを頼りにして、人が居ようが居まいが表裏関係なく、人の良いよう喜ぶように心を尽くしていく、ということなのです。
人から礼を言われたいとか大きな報酬が欲しいとか、目に見える形のものを頼りにしている限り、自らの心の癖性分や魂に積んできたことに目を向けていくことはできないのです。
私たちの運命を左右しているのは、心の癖性分や魂に積んできたことだというのに…。
だからこそ、正直に生きるのです。
人をたすける誠の心、これによって魂に積んできた悪い種が切れていきます。
人の良いよう喜ぶように心を尽くしていくのです。
ですが、人間は弱いので、目に見える形での御礼や報酬がもらえない場面、つまり陰のところでは誠の心が発揮できなくなってしまうのです。
だからこそ、人ではなく、親神様・教祖と自分の魂を見つめて通るのです。
すると、やり抜いていけます。
人からお礼どころではない、陰で良い事をしたのに罵倒されたりすることもあるでしょう。
そんな状況でも、親神様・教祖に受け取ってもらえることを信じていけば、やり抜いていくことができます。
すると、魂に積んだ悪い種が切れていきます。次第に「生きててよかったなぁ。」と喜びにあふれた陽気ぐらしに近づいていけます。生まれかわりを通して、末代でのたすかりに近づいていけます。
「蔭でよく働き、人を褒める」という「正直」の生き方、これによって、魂がたすかっていく通り方の土台ができていきます。
頑張っていきましょう。
本日は長くなってきたので、「働き」については次回に書きますね。

